分類

大豆の植物学的分類と来歴

大豆の学名は、変遷をたどった末に、Glycine max (L.)Merrillに定着しました。大豆が属するGlycine 属の分類はいまだ諸説がありますが、HermannがGlycine 亜属、Bracteata 属、Soja 属の3亜属10種、2亜種6変種にまとめたことによって基本が作られました。このうちSoja 属には大豆とツルマメが属するとする説が一般的です。

栽培種の大豆は、日本、朝鮮、中国およびシベリアのアムール川流域に広く自生する野生種ツルマメ(ノマメ)から分化したものと考えられています。

大豆とツルマメの植物体は似ていますが、ツルマメの葉は小さく、茎は細くてツル性です。それに対し大豆の葉は大型で、茎は直立しています。ただし、大豆にもツル性種があります。なお、ツルマメは現在の日本でも林の中や道路のわきなどに自生しており、北海道では特定の河川敷でそれを見ることができます。

大豆とツルマメは容易に交雑しますが、中国東北部ではこの野生種のツルマメと栽培種の大豆の中間型が見つかっています。Fukudaは、その半栽培大豆が中国東北部以外に認められていないことから、中国東北部が大豆の起源の中心であることを主張しました。

しかし、1970年代から1980年代にかけて、中国では全国的規模で野生種の調査が行われ、その分布密度が温帯に濃く、全体の約70%は北緯35度以北に分布していることが明らかになりました。このことから郭は、栽培大豆の起源は北緯35度以北の地域としていますが、大豆の起源については、いまだ意見の統一に至っていません。

ところで、中国では古代から五穀(米、麦、粟、豆、黍または稗)の一つとして大豆は栽培されており、文献的には、古代・周の時代の「詩経」の中に、大豆が栽培され、煮て食べていたという記述があります。恐らく、4000年前から栽培されて、紀元前11世紀にいは、すでに華北地方で広く栽培されていたようです。

そのようなことからも、大豆の原産地は、中国の中でも華北から東北区と考えられていましたが、最近では、中国のかなり広範囲の地域で、同時進行的に野生大豆の栽培化が進められて、現在の栽培大豆が生まれたとの考え方が現れています。



大豆の和名の由来

古代中国においては、大豆は大型の豆、小豆は小型の豆といった意味で使われており、必ずしも現在の大豆、小豆を指すものではなかったようです。それが三国時代の魏の字書「広雅」には、大豆を菽、小豆を荅と区別しています。この時代になると現在と同様な意味で使われています。

日本では、平安時代の「本草和名」にはオホマメとあり、「和名類聚抄」にはマメと記載されていて、どちらも大豆のことを示します。また、大豆と表記してマメとよんでおり、長く豆(マメ)はもっぱら大豆のことを指していました。

ところで、平安時代の「延喜式」には、大豆と醤が稲の代わりの租税として全国から貢納されたといわれています。「延喜式」に記録された納税国をみると、全て現在の滋賀県以西に限られており、当時の大豆栽培が主として西日本に偏っていたことが想像できます。

国内で広く栽培されるようになったのは、鎌倉時代以降のようです。江戸時代でも、大豆はマメと呼ばれ、その種類をマメ、クロマメ、すなわち黄大豆と黒大豆に大別し、黄大豆は味噌を作るのに、黒大豆は薬に用いられていました。

和名でダイズは大豆と表記されますが、ソラマメなど大豆より大きい豆があるのに、大豆にこの名前がついたのは「大いなる豆」の意味からで、一番最初に生まれた姫君に「大姫」の名をつけるのと同じく、第一番目の豆、大切な豆として「大豆」と表記し、マメと呼んでいたようです。なお、英名のsoybeanのsoyは醤油のことで、言うならば醤油豆という意味なのです。